何某の日進月歩

心に移りゆく由無し事をそこはかとなく書きつくっています

デパートの野菜はハイソな匂いがする

お題「昨日食べたもの」

 

昨日は自分で夕飯を作った。親に少しでも貢献したいと思う心からである。なお代金は親持ちである。何がしたいのか全くわからない。

NHKきょうの料理でたまたま出ていたつみれ鍋のためにスーパーに行こうとしたのだが、コロナの影響が出ていたのか定休日になっていた。聞いてない、と心のうちで叫んだがだからと言ってスーパーが開くわけではない。しかしもう鍋作ると言ってしまったのだ、材料はどこかで買わないといけない。

 

そんなわけでほぼ入った事ののない百貨店の地下のスーパーに行ってきた。

 

一言で言うと、「行儀がいい」と言うのが第一印象だ。ネギが真っ直ぐのしかない。ウーパーで見るような、曲がりくねったけどこんなに大きく育ちました!と言う物が無い。「僕たちは小学校受験に合格しひねくれる事なくエスカレーター式の大学を卒業しました!」と言ったネギばっかりだ。トマトも、完熟まではいかなかったけどいっぱいあるよ、ではない。パンパンの実をつけて初めて売り場のカゴに盛られる資格が得られる、と言う空気がある。ここには近所のスーパーに売られている見切り品の置く場所はないのだ。

 

百貨店を非難して居るわけではない。むしろ尊敬している。百貨店のバイヤーはその商品のクオリティを担保しないといけないのだ。自分の買った商品は美味しくなければならない、どの調理方法でもクオリティを維持しなければならない。それだけの単価をもらっているのだから。(だから百貨店の野菜は高い。一つ一つを選ぶ時間と労力が違うのだ。もちろんそれを選別するバイヤーを雇う賃金も)

 

重要なのは、トマト一つをみて「このトマトはいっぱい味が詰まっていて見た目もいいから百貨店に行ってもいいな」「このトマトは味は美味しいだろうけど癖が強いからスーパーに行こう」「これは完熟してしまったしスーパーで見切り品としよう」と言う判断をくだし、その最後まで責任を持つ人が居るという事なのだ。

そう言う人を、「神」と呼ぶ。

 

いつか人間にも、「君はもう少し給料が低くていい」とか、「君はもっと給料あげたほうがいい」「業界があっていないのでここに行くべき」とかを指導してくれて、その責任まで負ってくれるような、人間の「神」が私の前に現れないものか。

 

そんなことを考えながら、つみれを作る。百貨店のネギと鶏肉のミンチが入っているこのつみれの、大きさを決められるのは料理人である私であると考えると、なんとなく私はこのつみれの神になっている感じがした。